LOGIN十二月二十七日。
あず実は『環愛』を紹介する冊子の初稿を持って、HIMURO MOTOMACHI本社の小さな面談室を訪れていた。 向かいに座る雪臣と珠希が、開かれた紙面を覗き込んでいる。指輪の写真の隣には、二人から聞いた制作の経緯を短くまとめた文章が掲載されていた。 この記事を、ただ美しい夫婦の物語として飾りたくはなかった。雪臣と珠希、それぞれの話を一つにまとめ、ライターには細かな修正を依頼した。こちらが一方的に伝えたい事情ではなく、顧客の心に届く紙面にすることが目的だ。そして、二人がこの先も夫婦であり続けると読者に約束するような言葉は、初稿には入れていない――。 「メインの写真は、完成品の指輪が大きく写ったこちらと、制作工程のラフ画を写したこちらの、二案を用意しています」 あず実がページを並べると、雪臣が一方を指さした。 「こちらがいいと思います」 雪臣は迷うことなく、ラフ画が大きく写っているほうを選んだ。 あず実は、珠希に目を向けた。 「私も、こっちがいいです。今回の記事の新年初めての出勤。年末年始は毎日そばにいた雪臣だったが、会社ではやはり顔を合わせる機会も少ない。一度、総務の前ですれ違ったときも、挨拶を交わした直後、別の社員に呼び止められていた。去っていく背中を見送り、デザイン部の自分の席へ戻る。 珠希は、あず実から届いていた『環愛』の冊子の修正データを開いた。雪臣と二人で作った指輪から生まれたものが、今度は誰かの手へ渡っていく――文章からもその思いが滲み出ていて、珠希は思わず左手のマリッジリングに指先で触れた。最後まで修正内容を確かめ、確認済みの印をつけた。 昼休みに入る前、珠希は一階のフラッグシップショップへ下りた。HIMUROが一丸となって生み出してきた商品が、今年も一年、この場所から顧客のもとへ羽ばたいていく。そう思うと、新年最初の出勤日にどうしても店内を見ておきたくなった。 新年の飾りつけをした店内で、女性客がネックレスを試していた。女性が鏡を覗いた途端、その顔がほころぶ。なんだか自分まで嬉しくなるようだった。 女性はしばらく迷ったあと、商品を返した。今日は買わずに帰るらしい。理由は分からない。それでも、鏡の前の笑顔は珠希の心に残っていた。 母と作ったビーズリングを、何度も眺めていた自分を思い出す。特別な日でなくても、いつもの服にひとつ添えるだけで、少し嬉しくなる。そして、その思いはいつしか、ジュエリーデザイナーになって多くの人に同じ気持ちを届けたいという夢に変わった。 近くのカフェで昼食をとりながら、珠希は手帳に小さなペンダントを描いていた。 色石がもつ色そのものを楽しめる形。ダイヤモンドを小さくして価格を抑えるのとは、少し違うもの。ただ、珠希の仕事のデスクには『環愛』のデータがある。『環愛』は今の自分が担当している、大切なシリーズだ。手帳を閉じ、コーヒーを啜る。 そのあと、仕事に戻ってからもときどき考えていた。雪臣なら、さっき手帳に描きかけたペンダントを見て、何と言うだろう。 + + + 帰宅すると、台所から出汁の香りがした。 「おかえりなさいませ。珠希さま。もう少々で、お食事をお出しできますよ」 「ありがとうございます、三板さん」 珍しく先
大晦日。午前中に母との今年最後の面会を済ませ、午後は本邸へ顔を出し、年内に世話になった三板にも挨拶をした。すべての用事を終えた夜、珠希と雪臣は自宅で過ごしていた。 珠希は、食べ終えた年越しそばの器を重ね、台所へ運んだ。後ろから雪臣が箸を揃え、流しのそばに置く。「もうすぐ年が変わるね」「そうだな」 珠希は窓の外を見た。辺りは静かで、家の中には二人分の生活音だけが控えめに響いている。 ……大晦日に、こうして雪臣と年を越すとは思わなかった。去年も、その前の年も、今頃はひたすら直人と直恵の顔色をうかがい、下働きのように振る舞うことで精いっぱいだった。いつしか家のことを終えてから出る初詣だけが、年末年始の、自分のための時間になっていた。 けれど、ここではもうすぐ日付が変わるというのに、特別なことをしなくても穏やかでいられる。ひどく懐かしい感覚がした。「私、年が明けたばかりの空気を吸うのが好きなんだ。毎年、その時間に初詣に行ってて」 言ってから、雪臣を振り返った。余計なことを口にしたかもしれない。年明け直後の境内は混む。杖を使う彼には歩きにくいはずだ。「でも、混んでない時間がいいかな」 珠希が慌てて取り繕うと、雪臣は少しだけ口を尖らせ、リビングへ向かって歩いていった。背を向けたまま、雪臣が言う。「……いや。僕もいつも、年が明けてすぐに行っている」「そうなの? じゃあ、一緒に行こう」 雪臣はしばらく答えなかったが、ソファに腰を下ろすと「ああ」と一言こぼした。珠希は、彼の返事が少し遅れたことを特に気に留めなかった。+ + + 新しい年を迎えて家を出ると、痛みを覚えるほど冷え切った空気が頬に触れた。珠希は雪臣からもらったマフラーを首元に巻き直す。 吐く息が白くなる。隣を歩く雪臣も、いつもより襟を高くしていた。けれど珠希が見上げると、雪臣も同じ空を確かめるように顔を上げた。 毎年好きだった空気を、今年は彼と分け合っている。そう思うと、胸が高鳴った。 近くの神社へ続く道には、同じ時間に参拝しようとする人た
十二月二十九日。この日は仕事納めだった。 氷室百貨店の企画部は、まもなく今年も終わるというのに、年末の慌ただしさを引きずっていた。あず実は机に広げた周年企画の進行表を見直し、年明けに必要な確認事項を赤ペンで囲んだ。 ――タマに誤解されたくない。 面談室で聞いた声が、不意に蘇る。自分の手が触れるより先に退いた彼の姿も。 今日、雪臣が百貨店へ年末の挨拶に来る。顔を合わせるのは気まずかったが、あくまでも仕事だ。あず実は進行表を閉じて会議室へ向かった。 + + + 挨拶の席には、百貨店側の周年記念担当者が数名出席していた。雪臣は秘書の瀬原と並んで座り、年明けの掲載物の締め切りや、売場での告知時期を改めて確認していた。 話が終わる頃、あず実が雪臣に『環愛』の制作過程を紹介する冊子の修正予定を告げると、彼は紙面に目をやった。 「写真は、このように先日お二人が選ばれた案を使います」 「お願いします」 仕事について話すとき、雪臣の言葉はいつも明快だ。 二年前の冊子の作成時も、雪臣は同じだった。あず実が顧客の目線で説明文の順序を変えたいと申し出たときも、雪臣は最後まで聞き、机上の紙面を並べ替えて確かめた。 社長という多忙な立場にありながら、どうすれば顧客に伝わるか、彼はいつも真剣に考えていた。その姿を何度も見てきたからこそ、あず実は彼と仕事をするのが好きだった。 挨拶を終えると、瀬原は会議室を出て、先に地下駐車場へ向かった。雪臣には百貨店の他部署への挨拶も残っていたため、あず実が同行して執務フロアへ進んだ。 その間、あず実は来年九月のことを考えまいとしていた。一昨日、彼は珠希に誤解されたくないと言った。離婚したあともそうなのか、それを聞く権利が自分にあるとは思えなかった。 雪臣は執務フロアに顔を出し、簡単な挨拶を済ませた。あず実は、そのまま帰りのエレベーターまで彼を見送ることになった。 やがて従業員用のエレベーターが開き、中からあず実の部下が降りてきた。 「あぁ、氷室社長、お疲れ様です」 雪臣は、すれ違ったあず実の部下にも丁寧に挨拶をした。部下が去ると、あず実は雪
十二月二十七日。 あず実は『環愛』を紹介する冊子の初稿を持って、HIMURO MOTOMACHI本社の小さな面談室を訪れていた。 向かいに座る雪臣と珠希が、開かれた紙面を覗き込んでいる。指輪の写真の隣には、二人から聞いた制作の経緯を短くまとめた文章が掲載されていた。 この記事を、ただ美しい夫婦の物語として飾りたくはなかった。雪臣と珠希、それぞれの話を一つにまとめ、ライターには細かな修正を依頼した。こちらが一方的に伝えたい事情ではなく、顧客の心に届く紙面にすることが目的だ。そして、二人がこの先も夫婦であり続けると読者に約束するような言葉は、初稿には入れていない――。 「メインの写真は、完成品の指輪が大きく写ったこちらと、制作工程のラフ画を写したこちらの、二案を用意しています」 あず実がページを並べると、雪臣が一方を指さした。 「こちらがいいと思います」 雪臣は迷うことなく、ラフ画が大きく写っているほうを選んだ。 あず実は、珠希に目を向けた。 「私も、こっちがいいです。今回の記事の趣旨に合っている気がします」 二人が同じ写真を選び、あず実はペンで印をつけた。 答えた珠希の表情は、先日の忘年会で会ったときより柔らかく見えた。 あず実が来年九月の話をしたあとも、二人は同じ家へ帰り、今日までの日々をともに過ごしている。夫婦なのだから、自分の知らない時間が二人の間に積み重なっていくのは当然のことだった。 けれどあず実は、その当然のことに、ふと焦りにも似た感情を覚えた。 「……文章で気になるところはありますか?」 「ここだけ、少し変えられますか」 珠希は写真の下にある一文を示した。あず実が説明を聞いていると、雪臣も隣から短く言葉を添える。意見を述べるのは珠希で、雪臣は彼女の意図が伝わるよう補っていた。 「分かりました。修正したものを、またお送りします」 あず実が書き留めたところで、珠希のスマートフォンが震えた。 「すみません、デザイン部からです」 珠希は席を立ち、廊下で電話に出た。 ほどなくして戻ってきた珠希は、デザイン部長から至急確認し
十二月二十四日の昼過ぎ。今日の外出は、仕事でも氷室家の用事でもない。 先日、自分から美術館へ一緒に行きたいと言い出したくせに、玄関で彼が靴を履くのを待つ間から、珠希は妙に落ち着かなかった。 「入館券は、もう取ってある」 「ありがとう」 雪臣はいつもと変わらない表情で頷いた。先に玄関の扉を開け、珠希が出るまで押さえていてくれる。 美術館へ向かうタクシーが元町仲通り付近を進むと、HIMURO MOTOMACHIの旗艦店が見えてきた。店内までは見えないが、通りを行き交う人の多さからも、売場が忙しいことは容易に想像できる。 「やっぱり今日は、忙しいよね……」 「気になるか」 「うん。休んでていいのかなって……」 INUI Jewelryにいた頃は、クリスマスの時期に休暇を取るなど、一度も許されたことがなかった。ジュエリーデザイナーとしてINUIの売場に立ち、客の反応を見ながら、翌年のクリスマスに向けたデザインを考える。自分が手がけたシリーズを気に入っている顧客が来店すれば、接客に回ることも珍しくなかった。 美術館へ行きたいと言ったのは自分だ。それでも、かき入れ時に働いている人たちを思うと、少し申し訳ない気持ちになる。 「今日は売場に任せると決めた」 雪臣は窓へ目を向けたまま答えた。 「信頼している」 「……そっか。そうだよね!」 雪臣の言葉を聞いて、珠希も膝の上で握っていた手をほどいた。 HIMUROの社員が雪臣を信頼しているように、雪臣もまた、仲間に任せることを知っている。 + + + 美術館の展示室は静かだった。並んだ絵を眺めながら歩いていた雪臣が、足を止める。海外で活動する画家が描いた、女性の肖像画だった。 「これ?」 「ああ」 雪臣は絵の前でしばらく黙っていた。それから、女性の頬を指さす。 「影に使われている青色が珍しい」 「本当だね。ちょっと不思議な色をしてる」 雪臣は頷き、再び絵へ目を戻した。 珠希は、先ほど通り過ぎた二作隣の肖像画の前へ戻った。女性の手が、椅子の肘掛けに添えら
十二月も下旬に差しかかり、HIMUROの各店舗からは、連日、売上と在庫の報告が届いていた。 三板が休暇を取っている水曜日。朝食の席で、珠希がふと言った。 「年末に向けて、今日も売場が混むかもしれないね」 珠希がピンクのマグカップに口をつけ、コーヒーをすする。つられるように、雪臣もテーブルの上から色違いのマグカップを手に取った。 「週末も近いし、忙しくなるだろう」 「日曜は、クリスマスイブだもんね」 珠希は雪臣の手元へ視線を移し、少し迷うように口を開いた。 「……雪臣くんは、二十四日も店舗を回るの?」 「いや。休みが取れた」 「えっ、本当?」 「ああ。美術館に行くつもりだ」 珠希が顔を上げた。仕事以外の予定を彼女に話したことは、あまりない。 このところ忙しく、予定を立てる余裕がなかったが、年内にようやく時間が取れた。隠すようなことでもないので、そのまま珠希に話した。 「前から見たかった絵がある」 「そうなんだ。風景画とか?」 「肖像画。展覧会の最終日が近い」 「ふふ。雪臣くん、見に行くの楽しみにしてたんだね」 「……まあ」 ほかに答えようがないのに、妙にそっけない返事になった。珠希は気にした様子もなく、どんな絵が展示されているのかを尋ねてきた。雪臣が知っている範囲で話すと、彼女は「面白そう」と頷いた。 気づけば、瀬原が迎えに来る八時が迫っていた。 このまま食器を下げて会社へ向かうつもりで、雪臣は空いた皿を重ね始めた。立ち上がって杖を手に取ったときだった。 「あ、あの、雪臣くん」 呼び止められ、皿を取ろうとした右手が止まる。 「……一緒に行ったら、だめですか」 珠希は言い終えると、わずかに視線を伏せた。 「邪魔、しないから……」 ――え? 今、彼女は確かにそう言った。聞き違いではないはずなのに、返事をするまでの間、頭の中で何度も確かめてしまう。 先日、珠希は来年の九月には離婚すると言った。それは二人で決めた約束で、雪臣も否定できなかった。 そんな関係